坂本龍馬が暗殺された頃弘前藩では、

1868年(慶応4年)5月3日

東北諸藩が結集した奥羽越列藩同盟27藩の

重臣が白石に集まった。

弘前藩からは家老山中兵部が出席し合意

弘前藩は旧幕府側となる。

しかし、2か月後の7月5日、

京都勤めの家老西館平馬が、

朝廷の令書と近衛家の教書を持って弘前に到着。

書状を受け取った藩主承昭(つぐあきら)は

藩の方針をひっくり返し同盟を脱退。

(秋田藩はすでに新政府側に付いていた)

仙台藩や南部藩から

方針変更を責める使者がやって来た一方、

新政府側から南部藩荘内藩征討の

命令が届いたので、

最勝院を拠点に軍を置く。

承昭は、家老大道寺繁禎を青森口軍事総督に、

家老杉山成知を碇ヶ関口総督に据え警戒にあたる。

しかし、この戦争はそう長くは続かない。

白虎隊で有名な会津藩の若山城は8月22日陥落、

9月4日米沢藩、15日仙台藩、22日会津藩、

23日庄内藩の謝罪降伏となり、

南部藩も降伏し奥羽は平定した。

でも、北海道道南で榎本武揚・土方歳三たちが

最後の抵抗(箱館戦争)を続けていた為、

10月18日、

箱館府知事は弘前藩に援軍を要請。

承昭は大道寺繁禎・杉山成知を青森にて指揮させ、

新政府軍の応援も要請した為、

青森の町には全国から軍隊が集結、

榎本武揚・土方歳三らに苦戦し負傷者が多数、

浪岡に作られた病院に運ばれた。

その戦争の最中、

1868年(慶応4・明治元)10月23日

元号が「明治」になり時代は着々と進んで行く。

道南江差港で榎本が愛した

開陽丸が沈没した11月15日、

京都では坂本龍馬が暗殺される。

承昭は実家である熊本藩へも支援を要請。
それを請けた熊本藩はアメリカ船ハーマン号に

援軍を乗船させて品川沖から出航させたが、

不運にも座礁して沈没。

死者は200人を超えたという。


参考資料:『弘前藩記事』2

1869年(明治2)6月27日新政府軍は勝利し、

箱館戦争は終わった。

弘前藩主津軽承昭は多くの褒美を受け取ったが、

そもそもこれらの戦に膨大な費用が掛かり、

しかもこの年は稲が凶作であった為、

藩の財政は最悪となる。

明治維新の形が整っていく頃の

弘前藩の要の位置にいた大道寺繁禎

これから更に過酷な仕事が待っていました。

SNSには書ききれない彼の人生を

バスツアーでたっぷりお話します。

参考書籍:船水清『ここに人ありき3』陸奥新報社 昭和45年

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