りんご栽培の歴史を探るうちに
出会ってしまった大物、
大道寺繁禎(だいどうじしげよし)
津軽藩最後の家老として
幕末の混乱を良く治めた人でした。
当時、家老屋敷は現弘前中央高等学校の
グランドのあたりで、道路を渡ると、
東大門から入りまっすぐお城に上がれる
位置にありました。
大道寺家の先祖は紀州にあり、
津軽二代藩主信枚が大阪冬の陣に出兵した際、
スカウトし津軽藩で召し抱える事となった家柄です。
明治維新前後の混乱をしっかりと受け止め、
菊池楯衛率いるりんご栽培士族たちとは反対に、
りんごの苗木を明治政府から受取りはしたけれど
やりたがらなかった士族たちを集め、
大道寺は、受け皿となりました。
保証された身分を失い、
自力で働かなければいけない現状を
受け入れられない大勢の元藩士達。
私、木浪は、りんご歴史研究所の代表として、
りんご栽培をしなかった藩士たちの事も
書きたいと思っていたので、
やっとまとめる事が出来て嬉しい。
彼は、元藩士たちの職をつくる為、
会社を沢山作ります。
第五十九銀行(青森銀行)や
のちの角弘となる農具会社、
火力発電の弘前電灯株式会社
有勤社という養蚕の会社、
農牧舎という牧場経営会社などなど、
それらの会社が軌道に乗るまで
全ての社長を務めました。
幾つか、倒産したりもしましたが、
新しい価値観を受け入れつつ
大道寺自身必死に元藩士達の事を
考えていたと思います。
特に銀行業務は元サムライ達が
店頭に立つのですから
「いらっしゃいませ」のかわりに、
じろりとにらみつけ
「なんの用か」と聞く始末。
挙句の果て、
「町人のぶんざいで生意気なことをしゃべるな!」
と怒鳴ったりもするので、
客はみんな、「お願い申し上げる」
というありさまだったといいます。
大道寺の最終職歴は弘前市立図書館の館長でしたが、
元津軽家家老としての交流を全うした結果
全私財を使い尽くし、
晩年は、元使用人の家の二階に間借りして
職務を務め上げたといいます。
大道寺が使えた主君である津軽承昭は
その現状をいたく嘆き、彼の子息に
高照神社の社司になってはどうかと提案しました。
晩年、全ての職を辞し
妻と息子家族が暮らす高照神社に
身を寄せた繁禎は
大正8年11月23日
奇しくも高照神社の大祭日、
76年の生涯を終えたのでした。
この高照神社には、
繁禎が生前奉納した花籠の絵馬があり、
隣に隣接する高岡博物館には
大道寺繁禎が献上した刀が展示されています。
皆様、機会がございましたら
その絵馬と刀をご覧になってみて下さい。
高岡の森弘前藩歴史館トップページ (city.hirosaki.aomori.jp)
参考文献:船水清著 『そこに人ありき』
陸奥新報社 1970(昭和45)年発行