木浪真由美 的「青森りんご物語」①
はじめに りんご―それは「生きた歴史遺産」
明治維新で仕事を無くした藩士たちの、失業対策で始まった、青森県のりんご栽培。
生産量日本一のりんご産地に、こんな歴史がある事は、意外に知られていないのではないでしょうか?
今年二〇二五年は、青森県にりんごがやって来て一五〇周年にあたります。
一八七五年春、青森県庁に三本のりんごの苗木が届き、ある一人の元弘前藩士が、その苗木を敷地内に植えました。その人こそ、りんご栽培のパイオニアとして七二歳までの人生を、りんごをはじめとする農産物一筋に生きていく菊池楯衛(きくちたてえ)です。この物語は、この菊池から始まる青森県りんご栽培の壮大な遺産です。
こんな歴史があったなんて知っていたら、りんごを買う時、もっと真剣勝負だったかもしれない。そう思っていただけたら嬉しいです。そして、この本を読み終えた頃には、りんごを食べずには、いられなくなるでしょう。あなたにとって「単なる果物」だったりんごが、「生きた歴史遺産」であることに、気づいてしまったからです。
菊池楯衛を筆頭に始まるりんご栽培の歴史ですが、彼一人が英雄なわけではありません。これからお話をしていく、青森をりんご王国にした立役者たちを、ご紹介しましょう。
弘前藩一二代藩主である津軽承昭(つぐあきら)、青森みちのく銀行、株式会社カクヒロなどをつくった弘前藩家老大道寺繁禎(しげよし)、そしてもう一人の家老であり、石田三成の子孫である杉山成知(なりとも)、りんご栽培というスタートアップが実現できたのは、代表してこの四人の存在が大きいと思っています。
そして日本人として、最も早くりんごを作って食べていた、と言われる松平春嶽、七飯に巨大な果樹園をつくったドイツ人ガルトネル、菊池楯衛に接木法を伝授したアメリカ人技師ルイス・ベーマー。彼らの存在無くして、日本にりんごは根付かなかったかもしれません。
後に青山学院院長となる本多庸一が、横浜から弘前へ連れて帰ったジョン・イングは、当時、東北で唯一、外国人宣教師を雇用していた東奥義塾で教鞭をとり、生徒たちにりんごを食べさせました。その東奥義塾や東奥日報を創設した菊池九郎。そして弟の菊池三郎は、つがる市柏に現存する、日本最古のりんごの木を譲った人だと言われています。
大道寺と一緒に酪農会社を運営した、笹森儀助(ささもりぎすけ)は、のちに国防を憂いて日本中を探検、『南嶋探検』『千島探検』などの著書を残しました。この本は現場を見て書いた国防書として、柳田國男にも影響を与え、更に、明治天皇も読んだと言われています。
この笹森に、人格形成において、大きな影響を受けた外崎嘉七(とのさきかしち)は、東北各地へ指導に出向き、りんごの神様と呼ばれる指導者になっていきます。
その外崎が盟友としたのは、のちに北海道大学学長となっていく島義鄰(しま よしちか)と、晩年、大連に渡り大陸に津軽式りんご栽培を伝授する楠美冬次郎(くすみとうじろう)(*)、そして農家の地位向上に尽力し、組合という概念を実践した豪農相馬貞一(そうまていいち)、この流れは続編で紹介する木村甚彌(きむらじんや)へと繋がっていきます。
(*)楠美冬次郎の読み方に関しましては『青森県人名大辞典』を引用し「くすみとうじろう」としました。
りんごは冷害に強く、高値で取引されるため、多くの資産家が投資対象としました。
黒石の貴族院議員で、名勝金平成園施主の加藤宇兵衛(かとううへい)、りんご協会を創った、澁川傅次郎(しぶかわでんじろう)の祖父・澁川伝蔵(しぶかわでんぞう)、本多庸一に導かれ、藤崎教会をつくった佐藤勝三郎、りんご農家の副業として、馬鈴薯作りを推奨した藤本徹郎らについても特筆しました。
このように、今回の津軽地方前編の登場人物を、列挙してみましたが、この本では彼らが織りなす歴史を、できるだけ時系列で書いてみました。マニアックな地名が出て来ますが、できるだけインターネットで検索しながら、読んで頂くと印象に残りやすいかと思います。
また、現地にて「とことん!りんごの歴史ツアー」を開催中です(令和七年現在)。
是非、ご参加ください。https://matatabi-club.com/tour/3040.html
続編は明治後期から昭和五〇年代の、ふじりんごが台頭してくる頃までを書き上げる予定です。更に、青森県南部地方のりんご栽培の歴史も、とても興味深いので只今調査中です。いずれしっかりと書き上げたいと思いますので、もう少しお待ちください。
私の手元には『りんご百年史』という本があります。厚さ七センチメートルの大きな本です。これは今から五〇年前、青森りんご百年記念事業会が発刊したもので、とても貴重な本です。普通の図書館では、館外持ち出しできないので、借りて来ることができません。
毎朝三時起床の私は、朝方調べものに集中したい一心で、インターネットでこれを見つけて買いました。書き込みしたりインデックスを張り付けたり、一日に何度も開くのできっとそのうちボロボロになるでしょう。この世を去る時はくたくたにして、頭に詰め込んでいこうと思っています。
りんご栽培に関する細かい情報はこの本から確認をとっていますし、読み物としても飽きる事がありません。永遠に読んでいられる一冊です。この本に書いてあることをわかりやすく伝える役目が自分だと考えております。
歴史とは、過去に生きた先人たちが、繰り返してきた選択の結果です。何を選び何を捨てて来たのか、どうしてそう決めたのか、何を願っていたのか。これら一つ一つの歴史は私たちの体の一部となっているのです。ですから、歴史には共感できる場面、自分事と感じる場面があるのかもしれません。この本の中にもそんな奇跡が入っていたら嬉しいです。
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外崎嘉七
海外からも青森県のりんごは大人気。 誇らしい限りですが、 生産量日本一になるには理由がありました。 青森県にりんごの苗木が 初めてやって来た明治8年から 約20年後、りんご栽培は 病害虫との闘いが始まっていました。 実の中に入り込んだり、 木そのものを枯らしたり 当時は、病害虫のついた木は切り倒し 焼却するしか方法がなかったそうです。 明治30年の1年間だけで、 約9万本が伐採されています。 所が、にも関わらず、大豊作であったため 市場でさばききれず、価格が暴落しました。 更に明治33年には花腐れ病と呼ばれた モニリア病が広がり、...
楠美冬次郎
りんご歴史研究所の木浪です。 昔、中国大連市に渡りりんご栽培を指導した 元津軽藩士がいます、 大連に渡り12年後には その地で家族に見守られて一生を終えますが、 その生涯は波乱に満ちつつもりんご一筋でした。 楠美冬次郎(1863~1934) 菊池楯衛が北海道七飯の出張から戻り ベーマーから習ったことを直接伝えた 化育社のメンバーの一人。 菊池とは17歳ほど離れていますが 楠美のまじめな人柄でその信頼は厚く、 りんごの品種カタログ作成事業を任せました。 元津軽藩士でしたが、 りんご栽培で生きて行く決意をした楠美は...
クラウドファンディング(CAMPFIRE)で、あっぷるぱい(牌)制作にご支援いただいた皆様
クラウドファンディングの結果について、詳しくはこちら
鳥害
りんご歴史研究所の木浪です。りんごは漢字で林檎と書きますが、この禽は鳥の事です。 鳥が集まる木と書いて「林檎(りんご)」といいます。そのくらい鳥もりんごが大好き。 農家さんにとって鳥が厄介なのは完食しない事。たっっっくさんのりんごをちょっっっとずつ食べるから困るのです。 でも、鳥が食べるのは熟して美味しいからでも商品にならないどうしましょう。鳥が残したところを食べながら考えます。イメージはできててジンにできないかなって思ってる。 甘くないりんごはブランデーにしたいけど、甘いりんごはGINにしたい。...
りんごの食べ比べで思うこと
りんご歴史研究所の木浪です。先日、3種類のりんごをみんなで食べ比べしました。品種を確認しながら自分の好みを言い合うと、皆それぞれタイプが分かれる。酸っぱいりんごが好きな人やシャキシャキしていないとダメな人もいる。食べ比べはみんなでやると楽しい。 1903(明治36)年三月、明治政府が主催する、第五回内国勧業博覧会に於いて青森県はりんごの出品数、入賞点数ともに他道府県を圧倒し、りんごの直売所も好評で、四月一日付、東奥日報は「皮むきりんごの販売」という見出しで次のように報じています。...
Next AOMORIに参加して感じたこと
去年、Next AOMORIに参加して https://next-aomori.com/ 私が見つけた青森県の課題は「りんご産業の継続発展」でした。りんご農家さんが減少しない環境とは何か取りこぼしている副産物はないかという視点から出した結論が世界市場に向けたアップルブランデーを作るという事でした。加工用りんごの栽培を増やし農家さんの負担を減らす。価値あるアップルブランデーを世界市場で販売する事で継続的に高価格帯の加工品を作っていく。このプロジェクトが10月からスタートします。...
公式Facebook
STORY
りんごを青森県に根づかせた先人のストーリー
新たな時代の幕開け

大政奉還により新しい時代の幕開けとなった明治時代
幕府および藩の解体により、特にこれまで武士として生きてきた人々には大きな影響を与えました。そんな激動の時代の中、新たな産業の創出を夢見て青森県にりんごが持ち込まれました。
しかし、豪雪地帯青森県はりんごの生産に適した土地ではなかったのです。

時代の移り変わりはいつも突然訪れます。
明治時代に入り、特に今まで武士として生きてきた人達は明日からいったいどう生きていけばいいんだ!と悩みもがいてました。
そんな中、耳にした『りんご栽培』という新たな産業。明日への希望を『りんご』に託して、魂である刀を剪定鋸、鋏に持ち換え先人たちの挑戦がスタートしました。
先人たちの挑戦
先駆者

江戸時代末期に津軽藩(現在の青森県津軽地方)の武士家系に生まれた『菊池楯衛(きくちたてえ)』は、新たな産業『りんご栽培』の話を聞き衝撃を受けました。
これが自分の生きる道だと思い立った菊池は北海道に渡り、アメリカ人の農業技師より果樹栽培の技術を学び、自身でもりんご栽培の手法を研究しました。
菊池は弘前に戻り化育社という組織を設立。農業を志す仲間達に自身が確立したりんご栽培の手法を広めました。
この菊池の活動が現在の青森県のりんご産業の礎になったと言われています。

りんご栽培を青森県に根づかせた先人達。
今までの常識が刻一刻と塗り替えられていく現在の世の中、先人達の挑戦は私たちに勇気と希望を与えてくれます。
そんな先人達の挑戦を後世に伝え、これから挑戦していく人達を応援したいとの思いから『りんご歴史研究所』は設立されました。
私たちの活動を通してこれから青森県で未来のために挑戦する人々が一人でも増えていくことを心から願っています。