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りんごの歴史を伝承していく為の各種ツール・サービスを開発しています。

あっぷるぱい(牌)
あっぷるぱい(牌)
あっぷるぱい(牌)

アップルブランデーの試験蒸留

あっぷるぱい(牌)

りんご食べくらべプロジェクト

第2回あっぷるぱい(牌)大会2024年7月7日

遊び方解説書(日本語)はこちらから印刷できます

遊び方解説書(英語)はこちらから印刷できます

EVENTS

イベントによりりんごの歴史がより身近なるようご案内させていただきます。

NEWS

PRODUCTSやりんごの歴史など様々なコンテンツの発信をします。

内山覚弥(うちやまかくや)

りんご歴史研究所の木浪です。 木浪家はここ数年、弘前市富田の 和料理なかさんのおせちを用意して 新年を迎えています。 普段、外食をほとんどしない為 毎年、ありがたく頂いております。 http://suigeturo.com/index.php/shop/ なかさんは今は富田にありますが、 それ以前はれんが倉庫美術館の向いの みどり保育園の場所にありました。 そしてそれ以前は本町佐和屋さんの お隣にあったそうです。 1786(天明6)年創業の老舗です。 当時は、酔月楼(すいげつろう)という 弘前経済界の重鎮が集う料亭で、...

津軽藩 船橋(笠原)家

先日、お友達4人で禅林街にお参りに行きました。 その後、大道寺家、杉山家、笠原家の 共通点を探してみた所、 ここまで、まとめる事が出来ました。 津軽藩二代当主信枚(のぶひら)は 関ヶ原の両雄(徳川家康と石田三成)の娘を、 共に後妻として迎えた人でした。 1610年、石田三成の三女・辰姫が 北政所の養女の身分で津軽家に嫁ぎ、 1619年、信枚との間に一男が生れます。 のちの三代藩主信義(のぶよし)です。 しかし、辰姫輿入れのすぐあと 家康の養女満天姫が 福島正之との間に生まれた一子・直秀を連れて 信枚に輿入れしてきます。...

斎藤昌美(ふじ育ての親)

斎藤昌美(ふじ育ての親)

りんご歴史研究所の木浪です。弘前市禅林街にあります藤先寺のご住職に津軽藩士についていろいろ取材させて頂いた時、偶然ご紹介頂いたのが斎藤文伸さん。ふじりんごの生みの親の一人、斎藤昌美さんの息子さんです。文伸さんから昌美さんのお話を沢山聞かせて頂きました。https://lnkd.in/dW_yvRmZhttps://lnkd.in/dbq_PQ9Dhttps://lnkd.in/dPCFKSTDhttps://lnkd.in/da4WTk2V昭和30年、斎藤昌美さんは、新種「ふじ」が、本当に栽培に耐えられる品種かどうかを調べる重要な役目...

大道寺繫禎

大道寺繫禎

りんご栽培の歴史を探るうちに 出会ってしまった大物、 大道寺繁禎(だいどうじしげよし) 津軽藩最後の家老として 幕末の混乱を良く治めた人でした。 当時、家老屋敷は現弘前中央高等学校の グランドのあたりで、道路を渡ると、 東大門から入りまっすぐお城に上がれる 位置にありました。 大道寺家の先祖は紀州にあり、 津軽二代藩主信枚が大阪冬の陣に出兵した際、 スカウトし津軽藩で召し抱える事となった家柄です。 明治維新前後の混乱をしっかりと受け止め、 菊池楯衛率いるりんご栽培士族たちとは反対に、 りんごの苗木を明治政府から受取りはしたけれど...

三本足のはしご

三本足のはしご

https://www.instagram.com/p/Cva9-Z9SYHe/?utm_source=ig_web_copy_link&igshid=MzRlODBiNWFlZA== わたくし、なんと! その時少し触れた 三本足梯子の現物を発見したんです!!! うそです。 郷土史家の小笠原豊さんに 教えて頂きました。 場所は、平川市文化センター2階郷土資料館です。 https://www.city.hirakawa.lg.jp/bunka/bunka/bunkacenter.html...

りんご梯子

りんご梯子

りんご歴史研究所の木浪です。 今日はりんご梯子(ハシゴ)の歴史をご案内します。 弘前市和徳町にあります木村木工所さん。 現社長さんの木村雄治さんにお話を聞きました。 大正5年、 雄治さんの曽祖父の貞次郎さんが 4本足のりんご梯子を発明したそうです。 それまでの梯子は3本足だったので 上ったら下りるの繰り返しでしたが、 片方から上がって反対側に下りられる梯子があればいいのに という農家さんの要望を形にしたのだそうです。 材質もそれまでの松や杉から青森ヒバに変えました。 緻密で強く、水をはじくので、 何十年も持つのだそうです。...

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STORY

りんごを青森県に根づかせた先人のストーリー

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新たな時代の幕開け

大政奉還により新しい時代の幕開けとなった明治時代

幕府および藩の解体により、特にこれまで武士として生きてきた人々には大きな影響を与えました。そんな激動の時代の中、新たな産業の創出を夢見て青森県にりんごが持ち込まれました。

しかし、豪雪地帯青森県はりんごの生産に適した土地ではなかったのです。

時代の移り変わりはいつも突然訪れます。

明治時代に入り、特に今まで武士として生きてきた人達は明日からいったいどう生きていけばいいんだ!と悩みもがいてました。

そんな中、耳にした『りんご栽培』という新たな産業。明日への希望を『りんご』に託して、魂である刀を剪定鋸、鋏に持ち換え先人たちの挑戦がスタートしました。

先人たちの挑戦

先駆者

江戸時代末期に津軽藩(現在の青森県津軽地方)の武士家系に生まれた『菊池楯衛(きくちたてえ)』は、新たな産業『りんご栽培』の話を聞き衝撃を受けました。

これが自分の生きる道だと思い立った菊池は北海道に渡り、アメリカ人の農業技師より果樹栽培の技術を学び、自身でもりんご栽培の手法を研究しました。

菊池は弘前に戻り化育社という組織を設立。農業を志す仲間達に自身が確立したりんご栽培の手法を広めました。

この菊池の活動が現在の青森県のりんご産業の礎になったと言われています。

りんご栽培を青森県に根づかせた先人達。

今までの常識が刻一刻と塗り替えられていく現在の世の中、先人達の挑戦は私たちに勇気と希望を与えてくれます。

そんな先人達の挑戦を後世に伝え、これから挑戦していく人達を応援したいとの思いから『りんご歴史研究所』は設立されました。

私たちの活動を通してこれから青森県で未来のために挑戦する人々が一人でも増えていくことを心から願っています。

青森の挑戦を応援