内山覚弥(うちやまかくや)

りんご歴史研究所の木浪です。

木浪家はここ数年、弘前市富田の

和料理なかさんのおせちを用意して

新年を迎えています。

普段、外食をほとんどしない為

毎年、ありがたく頂いております。

http://suigeturo.com/index.php/shop/

なかさんは今は富田にありますが、

それ以前はれんが倉庫美術館の向いの

みどり保育園の場所にありました。

そしてそれ以前は本町佐和屋さんの

お隣にあったそうです。

1786(天明6)年創業の老舗です。

当時は、酔月楼(すいげつろう)という

弘前経済界の重鎮が集う料亭で、

菊池楯衛もこの酔月楼の常連でした。

酒豪で知られる菊池の日記には

「今日、酔月楼にて大いに飲んだ」が

良く出て来るそうです。

大正初期、酔月楼は本町から住吉に引っ越します。

「割烹中三」という名前にかわり

土淵川沿いに位置しました。

隣には津軽藩医だった小野病院があり、

川を挟んだ南川端町には

内山覚弥の家がありました。

内山覚弥は明治13年

弘前城に20本のさくらを植えました。

手入れがされず荒廃していく弘前城を

憂いたためです。

明治時代になり江戸幕府が残したものは

排除・排斥する流れとなり、

「廃城令」なるものが出されました。

江戸幕府を連想させる「城」は

こなごなにしてしまえ~!ということです。

しかし、日本中のお城が取り壊されていく中

弘前城には、この廃城令が該当されませんでした。

なぜか、

函館・五稜郭で戦が続いていた事と、

北方海域から日本に侵入する外敵警備の為でした。

弘前城は「廃城令」は免れたものの

ほとんど管理はされなかったため、

城内は荒れ放題だったのです。

いたるところに雑草が生い茂り

これを見かねた小比内、外崎、寺内三ヶ村の

村人たち二百余人が、雑草刈り取りを

願い出たほどだったと言います。

その頃、内山覚弥は城内の館番を務めていて、

弘前城内の地所を借り受けて

漆や桐笛を仕立てていました。

彼はしきりに城跡の荒廃を嘆き、

何とか「弘前城の美」を残したいと

三の郭に桜20本を自費で植えたのです。

それは、明治13年の事でした。

内山からその事を聞いた菊池は賛同し、

2年後の明治15年に西の郭と二の丸を中心に

桜1000本を植えます。

旧藩時代、山林取締役兼樹芸方であった

菊池としても、このありさまを

ほっておく事ができなかったのです。

やがて成木した時には必ず、

美観を呈するに違いないと考えた事でしょう。

明治28年、城内は弘前公園として開園されましたが、

内山はこの時にも桜100本を寄付しています。

その後、内山は市議会議員を数期務め、

常に、公園美化の為桜の植栽を主張し続けた結果、

明治33年には、大正天皇御成婚奉祝記念として、

1000本の桜を植栽となりました。

内山はのち、市農会、県農会にも尽力し

昭和8年82歳でなくなりました。

とにかく、現在の弘前公園の桜の始まりは

菊池楯衛と内山覚弥の努力におうところが

大きいと言えます。

という事を文章にまとめながら、飲みながら、

酔月楼の肴をあてに、酒を酌み交わす

菊池と内山の二人を想像しています。

参考文献:船水清著 『そこに人ありき』

     陸奥新報社 1970(昭和45)年発行