津軽藩 船橋(笠原)家

先日、お友達4人で禅林街にお参りに行きました。

その後、大道寺家、杉山家、笠原家の

共通点を探してみた所、

ここまで、まとめる事が出来ました。

津軽藩二代当主信枚(のぶひら)は

関ヶ原の両雄(徳川家康と石田三成)の娘を、

共に後妻として迎えた人でした。

1610年、石田三成の三女・辰姫が

北政所の養女の身分で津軽家に嫁ぎ、

1619年、信枚との間に一男が生れます。

のちの三代藩主信義(のぶよし)です。

しかし、辰姫輿入れのすぐあと

家康の養女満天姫が

福島正之との間に生まれた一子・直秀を連れて

信枚に輿入れしてきます。

おそらく家康は辰姫の婚姻を知り、

津軽家に対する牽制策として

政略結婚を進めたのでしょう。

ともあれこの信義の誕生を満天姫が知る事となり、

幼い信義と辰姫は幽閉されました。

その中で辰姫は死去し、

信義7歳の時やっと江戸に呼ばれ

のちに藩主となります。

この時乳母だった船橋半左衛門の妻が同行していて、

この船橋半左衛門がのちの津軽家家老

笠原八郎兵衛の先祖に当たります。

船橋家は、豊臣秀吉五代大老の一人・宇喜田秀家に

仕えていた家柄で当時は笠原姓でしたが

関ヶ原の戦い後、津軽藩に召し抱えられ

母方姓の船橋を名乗ったのです。

つまり、大道寺家、杉山家、船橋家はすべて

豊臣側についた大名の家臣だったのです。

船橋半左衛門夫妻は辰姫と信義が幽閉されていた時から

信義が三代継承となるまで必死に支えてきました。

晴れて、信義は藩主となり、

共に表舞台に立ったとはいえ、

信義親子を幽閉し黙認してきた重臣たちと

折り合いがうまくいかなかったと思われます。

その後も、信義によく使え家老に昇進、

妬んだのがもとより開祖為信の時代から

使えた古参の家臣たち。

何かにつけいちゃもんを付け事は大きくなり

幕府が仲裁に入るほどに騒動は大きくなる一方。

結果、喧嘩両成敗となりましたが遺恨が残りました。

これは「船橋事件」として伝わっているようです。

ともあれ、三成の外孫に当たる津軽信義は

徳川幕政下の津軽譜代衆には

あまり歓迎されなかったと言えます。

『奥州・津軽一族』白川亨著によると、

信義・船橋側が書いた書物はないが、

譜代衆が残した信義・船橋

両奇人説は沢山あるとの事から

後年、創られたものであろうと記しているし、

満天姫からも良く思われていないのだから、

ますます、船橋は信義を守ろうとしたと思われます。

辰姫のお墓がある貞昌寺に

船橋(笠原)家のお墓もあるそうです。

信義の治世から約50年後の

九代藩主寧親(やすちか)・十代藩主信順(のぶゆき)の時代に

家老となる笠原八郎兵衛、近江親子が

船橋家の末裔として台頭してきます。

参考文献:『奥羽・津軽一族』白川亨著

     新人物往来社2000年

結論、悪評はその時の権力者によって書かれるでしょうが、善行は加筆されないので、悪評だけを参考にして時代考証をしてはいけない。

そして、江戸時代から続く悪い癖「妬み・嫉み」はやめて、世界を見るべき!

森鴎外も『渋江抽斎』の中で「由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに在府党と在国党とに分かれて荏苒(じんぜん)決せざることである。」と述べているそうです。