りんごの食べ比べで思うこと

りんご歴史研究所の木浪です。先日、3種類のりんごをみんなで食べ比べしました。品種を確認しながら自分の好みを言い合うと、皆それぞれタイプが分かれる。酸っぱいりんごが好きな人やシャキシャキしていないとダメな人もいる。食べ比べはみんなでやると楽しい。

1903(明治36)年三月、明治政府が主催する、第五回内国勧業博覧会に於いて青森県はりんごの出品数、入賞点数ともに他道府県を圧倒し、りんごの直売所も好評で、四月一日付、東奥日報は「皮むきりんごの販売」という見出しで次のように報じています。

「三月十日頃からりんごの皮をむいて売り始めたら大好評で、当日午後5時から6時ころまではざっと一時間に約3箱の果実を売り、店員3人で手の廻りかねるほどである。皮をむいて食わせると紅玉よりもむしろ雪の下(国光)が甘いと言って好む人が多く外見の美は素人、甘味の物は玄人に向くようだ。」

この販売に汗を流していたのが、盟友、楠美冬次郎と外崎嘉七でした。スーツを着ているのが楠美冬次郎。紋付きを着ているのが外崎嘉七。

楠美冬次郎
外崎嘉七

一時間に3箱の販売に大騒ぎしているのは、時代の違いで当時は今より小玉で一箱に百個から二百個くらいは入っていたそうなのでその盛況ぶりがうかがえます。実際食べてみて好みの方を買ってもらう。栽培のエキスパートが販売の名人にもなるのでした。

楠美冬次郎は以前も少し書きましたが、菊池楯衛の愛弟子です。元藩士でとても美男子だったとか。一方、外崎嘉七は、農民出身者で最初のりんご栽培指導者になった努力家です。生れも育ちも雲泥の差がある二人ですがりんご好きとしては全く同志で、信頼しあい研鑽を重ねたのでした。この二人のりんご畑は中津軽郡清水村(現弘前市樹木)にありました。当時清水村はりんごの一大産地として、またりんご栽培の模範として全国から視察に来る人が絶えない名産地となっていました。

あの試食販売から5年後の1908(明治41)年9月24日、清水村に皇太子(のちの大正天皇)がお見えになったのです。当時日本に於いて、どれだけりんごが人気だったか、そして、明治政府が課した果樹栽培に、見事にこたえた津軽藩士と農民たちに対してどれほど日本政府が重きを置いていたかを表す行啓だったと思います。今も皇太子がお立ちになった場所に行啓記念碑が立っています。

その後、この清水村は更に聖地となり記念碑の前では毎年9月24日に神事として「記念祭」が行われ人々は先人に感謝をし、りんご産業発展の為に力を尽くすことを誓ったのでした。今でもこの「記念祭」はりんご祭として続いています。

外崎嘉七は私が開発したカードゲームにも登場します。りんごの神様と呼ばれた偉人です。ですが、津軽のりんご栽培の歴史はキーマンとなる偉人が沢山いました。今後少しずつご紹介していきますが、お彼岸の今日、静かに手を合わせ全ての先人に感謝したいと思います。

写真提供

青森りんご協会

参考文献

斎藤康司著「りんごを拓いた人々」

筑波書房 1996年