楠美冬次郎

りんご歴史研究所の木浪です。

昔、中国大連市に渡りりんご栽培を指導した

元津軽藩士がいます、

大連に渡り12年後には

その地で家族に見守られて一生を終えますが、

その生涯は波乱に満ちつつもりんご一筋でした。

楠美冬次郎(1863~1934)

菊池楯衛が北海道七飯の出張から戻り

ベーマーから習ったことを直接伝えた

化育社のメンバーの一人。

菊池とは17歳ほど離れていますが

楠美のまじめな人柄でその信頼は厚く、

りんごの品種カタログ作成事業を任せました。

元津軽藩士でしたが、

りんご栽培で生きて行く決意をした楠美は

明治13年、蔵主町の生家を売却し富田に畑を購入。

現在のレンガ倉庫美術館のある場所です。

手入れが行き届いたりんご畑には

スモモや、アスパラガスなども植えられ、

花菖蒲の有る庭園は、当時弘前市の

観光名所の一つだったそうです。

桔梗野や新寺町方面にも畑を数か所増やし

合計九町五反歩まで面積を増やしました。

当時主流となる大規模りんご園経営を進める一方、

栽培の指導者として奔走します。

明治28年、明治の文明開化が弘前にもやって来て、

弘前電灯株式会社が設立され、

楠美の富田の敷地が候補となり

火力発電所が作られました。

寄って、弘前で一番最初に電気がついたのは

楠美冬次郎の家だったそうです。

その後、富田の敷地は売り払い、

清水村(現・弘前市樹木)に引っ越します。

盟友外崎嘉七の家にも近く、ますます

りんご栽培に邁進していきました。

清水村のりんごの品質は日本中に知れ渡り

時の皇太子(のちの大正天皇)が

行啓訪問においでになるなど

誉れ高い評価を得ていきます。

しかし、その後大規模栽培に

病害虫の被害が猛威を振るい、

りんご栽培を断念する元藩士が急増

化育社から親友で従弟でもある

佐野煕(ひろし)の死など

時は大きく変化していました。

その頃、日本は日露戦争に勝利し満州を統治。

楠美に大連市での

りんご栽培指導の誘いがありました。

当時楠美は61歳。

なんとすべての財産を売り払い

妻と長男を連れて大連へと旅立ちます。

大正13年の事でした。

この決断、すごくないですか!

当時の平均寿命ををとっくに超えてます。

楠美が大連でまず見たものは

国光を小さく青いうちに

収穫している現状だったそうです。

剪定をし、肥料をあたえ、袋をかけ育てた、

楠美の赤く大きな国光を見た時

大連の人達は驚愕しました。

大連市がある関東州のりんご栽培面積は、

楠美が赴任当時約千町歩程度だったものが

12年後には6倍にまで広がり

南方への輸出を提案した楠美のおかげで

大連の経済状態は益々好調となりました。

元々武士道が根幹にある楠美の人柄は

儒教を重んじる大連の人々の

心を掴み、篤く信頼されました。

しかし、

大連に家族で移り住んで12年後

胃潰瘍から胃がんを患い病床に伏し、

昭和9年4月14日

沢山の人々にみとられながら

その豊かな人生の幕を閉じたのです。

享年72歳でした。

残された奥さんのつげさんは

日本に戻り東京の娘夫婦と暮らしますが

楠美冬次郎の石碑を弘前に建てたいと話します。

有志が集まり計画は進み、

昭和43年12月、

弘前市八幡宮境内に建立されます。

つげさんはその翌年の3月

101歳でお亡くなりになりました。

先日、八幡宮様にお参りし

楠美冬次郎さんの石碑にも

手を合わせて来ました。

今の大連のりんご栽培はどうなっているのか

ご存じの方がいたら

是非、教えて下さい。

http://www.chinatrip.jp/dalian/guide/detail-635.htm

参考文献:船水清著 『そこに人ありき』

     陸奥新報社 1970(昭和45)年発行