海外からも青森県のりんごは大人気。
誇らしい限りですが、
生産量日本一になるには理由がありました。
青森県にりんごの苗木が
初めてやって来た明治8年から
約20年後、りんご栽培は
病害虫との闘いが始まっていました。
実の中に入り込んだり、
木そのものを枯らしたり
当時は、病害虫のついた木は切り倒し
焼却するしか方法がなかったそうです。
明治30年の1年間だけで、
約9万本が伐採されています。
所が、にも関わらず、大豊作であったため
市場でさばききれず、価格が暴落しました。
更に明治33年には花腐れ病と呼ばれた
モニリア病が広がり、
収穫皆無となったそうです。
恐ろしくないですか?
これも、青森県に限った事では
ありませんでした。
むしろこれらの病害虫は
南から北上してきたのです。
日本政府が更に苗木の輸入を推奨したものの
検疫が十分行われず難題の上乗せでした。
このように生産が安定しない中、
東北中でりんご栽培をあきらめる
農家が続出します。
というより、青森県以外の
りんご農家には他にも
選択肢があったと言うべきかもしれません。
養蚕です。
特に長野県は良質な桑の葉の生産に恵まれ
日本一の生産量を確立し政府はこれを輸出
世界トップクラスの絹糸で外貨を得ました。
りんごが無くても養蚕があったのです。
青森県は養蚕に適した桑の葉が穫れなかったので
「りんごで行くしかない。」
覚悟を決めるしかなかったでしょう。
ちょうど、この頃
指導者だったのが外崎嘉七でした。
りんごの袋かけや、
木を一本一本洗っていく事などで対処し、
これを農民は愚直にこなします。
数々の困難を克服し生産量一位の
地位を確立したのです。
確かに競争相手が離脱していった
一位ではありますが、
一位に甘んじてはいけないと言って
それでも、りんご栽培を続ける
東北中の人達の為に
外崎嘉七は技術指導に出向きました。
正に、「りんごの神様」でした。
その後起きた世界恐慌は日本の
農業恐慌を引き起こし
米価と繭価、りんごの価格も
暴落しました。
しかし、米に比べてりんごは、
冷害に強かったため生産量を増やし、
破綻する事はなかったので
再び、りんご栽培熱が高まります。
養蚕県である長野県でも
桑の木を抜いてりんごを植える
ようになりました。
今では、青森県に次ぐりんご
生産量第二位となっています。
先人たちに心から、
「ありがとうございました。」
と言いたい。
参考文献:岩本由輝著『東北地域産業史~伝統文化を背景に~』
刀水書房 2002年